今日は、東京都の墨田区にある両国駅の周辺を、色々と歩き廻ろうと思っているんですが、ところでこの両国というと、先ず頭でイメージするのは「相撲の街」。ここには両国国技館があって、1年間に6回行われる大相撲の本場所のうち、その半分の1・5・9月の開催場所が、この両国国技館という訳なんです。なにしろ、JR中央・総武線の両国駅構内からして、ご覧の様な大相撲ワールド振り。そこには、本場所優勝力士の優勝額がズラリと掲げられて、更に、歴代横綱の手形が押された色紙も展示されていて、まるで展覧会みたい。実は自分も大相撲ファンなので、こうして駅に着いただけで、ちょっとばかりワクワクするのであります。
・・・が、しかしです。両国って、なにも相撲だけじゃぁないんです。この両国界隈の魅力は、他にもたくさんある訳でして、今日はそんな事も含めて、あちこち寄ってみようと思います。 |
先ずは駅西口のロータリーに出て来ました。この駅前ロータリーの中心部分の広場は、地上パーキングになっていて、平日の午前中だというのに空きスペースは概ね埋まり、あと少しで満車状態。やっぱり都内主要駅前の駐車場って、便が良くて人気なんでしょうか。 |
駅前を走る通りは国技館通り。この通り沿いの、駅のすぐ右隣りに、両国国技館は在るのですが、国技館へ寄るのは後にして、先ずはこの通り沿いを左方向へと進む事に。頭上にはJR線の高架橋が架かります。 |
駅前を走る、全長1km余りの国技館通り。その通り沿いの歩道の数箇所に設置されているのが、この横綱手形モニュメントです。歴代横綱の手形が埋め込まれた、モニュメントの頂点に乗っているのは、横綱土俵入りのブロンズ像。 |
両国駅前から200m余りで、国技館通りは国道14号線の京葉道路にぶつかります。そして、その正面突き当りに見えているのは、浄土宗の寺院回向院。実はこの回向院も、相撲と深い関わりがある寺院なんです。 |
現在の両国国技館の前身である旧国技館は、明治42年に当時の回向院境内(現・回向院隣地)で竣工・開館しました。そもそも回向院では、昔からその境内で相撲興行が行われて来た事もあり、旧国技館は開館以来昭和21年まで、1万3千人収容の相撲常設館としての役割を果たし、そしてその後、相撲以外の用途に利用されていた時代を経て、昭和58年に老朽化のため解体されたのでした。 |
この回向院の創建は1657年。同じ年に江戸で発生した大災害、10万人余りの犠牲者を出した明暦の大火(振り袖火事)の無縁仏を、当時の江戸幕府の命によってこの地に葬ったのが始りです。そして他にも、その後に起こった天変地異や事故などの犠牲者や、更には人間以外の動物までもが広く供養されています。 |
回向院で初めて相撲の興行が行われたのは1768年。回向院に限らず、当時の相撲の興行は主に寺社の境内などで行われていました。その後回向院での相撲興行は定着して、前述の様に旧国技館の開館へと繋がって行きます。境内にあるこの石碑は、昭和11年相撲協会によって建立された力塚。物故した歴代の相撲年寄(主に親方衆)を慰霊する為に建てられたもので、石碑の裏側には年寄名跡がびっしりと刻まれています。 |
こちらには、災害によって命を落とした人々の為の供養碑が並んでいました。六基並んだいちばん左手前は関東大震災、ふたつ置いた先の二基は安政の大地震、いちばん奥のものは明暦の大火の供養碑です。 |
そしてその裏側に並んでいるのは、海難の供養碑。主に18世紀から19世紀に起こった、海難事故で亡くなった人々の為の供養碑なんですが、特に右手前からふたつ目の碑は、1789年の建立になる、伊勢で起きた海難事故の供養碑で、そのデザインは帆掛け船の姿を模しています。 |
馬だけでなく、ペットや動物全般に対する供養の象徴でもある馬頭観音。動物供養の寺としても知られる、この回向院の馬頭観音堂では、亡くなったペットを合祀し供養しています。境内にはこの他、犬猫や小鳥、更にはオットセイの供養塔などというのも建立されているんです。 |
これは猫の供養塔で、1816年の建立になる猫塚。そのむかし、生活に困窮したある行商の魚屋が、飼い猫の何処からともなく口に銜えて持って来た小判に助けられたという、落語の演目などにもなった昔話、「猫の恩返し」。それは、この古い猫の墓が話の元になっているんだとか。 |
猫の次はネズミ。鼠小僧次郎吉の墓です。まぁもっとも、こっちは人間サマなんですが。
歌舞伎や演劇、小説などでもお馴染みの鼠小僧は、その盗みのターゲットが主に武家屋敷で、盗んだ金は町民に配っていた事から、世間では義賊としてある意味英雄視されていた訳ですが、まぁこの辺はご存知の様に、殆どがフィクションだったと言われています。何れにしても大盗賊の鼠小僧は、結局死罪となってその首を晒されてしまうのでありますが、たとえフィクションであっても、庶民からの人気は高かった事から、当時としては犯罪者に墓を作る事が許されてはいなかったにも拘らず、この供養塔を建立するに至ったという事らしい。そしてその人気振りを裏付ける様に、鼠小僧の墓石を削ってお守りにすると願いが叶う、という風習が昔から在ったため、欠き石またはお前立と呼ばれる「削り・持ち帰りOK」のダミー墓石が、大正15年建立になるこの供養塔の前にご覧の様に建てられ、そして現在に至ってもまだ、削られて小さくなる度に、建て替えられ続けていると言う訳なんです。 |
寺の入口にあたる仁王門の所まで戻って来ました。この辺りで次なる目的地、歌舞伎や時代劇などでもお馴染み、あの赤穂浪士討ち入りの吉良邸跡がすぐ近くにあるので、そちらへと移動する事にしましょう。
仁王門を抜けて表に出たら、国道14号線の京葉道路沿いを右方向へ。 |
国道沿いに出ると回向院のすぐお隣には、オフィスや共同住宅、そして商業施設、更には劇場なども入っている18階建ての複合ビル、両国シティコアがあります。そして現在このビルが建っている場所こそが、先にも述べた旧両国国技館が在った場所なんです。 |
実はこの複合ビルの敷地内には、ちょっとばかりおもしろい場所があるんです。それがこの、建物裏手にある駐輪スペース。画像でも分かる様に、金属のプレートで円形に縁取られ、タイルの模様がズレている部分があるんですが、これが何を隠そう、旧国技館内において土俵が設置されていた場所、と言う訳なんです。この円形の大きさは、目の子勘定で直径10m程だと思われるので、実際の土俵のサイズと比べると、かなりビッグサイズではありますが、タイル柄のズレも含めて、昔ここに相撲の土俵が在ったって事がすぐに分かる様に、意図的に目立たせているのではないかと思う訳であります。 |
ちょっと寄り道しましたが、国道沿いへと戻りましょう。
さて、回向院をあとにして100mほど進むと、右方向へと分かれる道がありました。先ずはこれを右折。 |
更に100mほど直進すると十字路があるので、今度はこれを左折します。 |
左折の目印は、十字路の脇に建てられた「本所松坂町公園・吉良邸跡」への、この指導標。 |
そしてその先の左手100m足らずで、なまこ壁に囲まれた、本所松坂町公園・吉良邸跡に到着です。いざ討ち入り! |
旧吉良邸跡は現在、ご覧の様なこぢんまりとした、30坪足らずの公園として整備されている訳なんですが、当時は8,400平米ほど、坪数にして2,500坪余りにもなる、広大なお屋敷だったのでした。 |
そしてこの像の人物がお屋敷の主、徳川将軍家直属の家臣となる、旗本の吉良上野介義央(1641-1703)。御歳50歳位の時の姿をモデルに、この坐像は制作されたらしい。
ところで、歴史上の人物の評価というものは、時代によって往々にして変わるものなのでありますが、忠臣蔵ではヒール役のこの吉良義央もまた、例外ではありません。物語ではネチネチと浅野長矩をいじめる、超パワハラなイヤな男に仕立て上げられている訳ですが、近年における吉良義央の人物評価は、従来の悪役像とは異なった意見も多く、所領では高い行政手腕を持つ名君であった、とする見方や言い伝えもある様です。更にその出自・家柄から、高家の筆頭格(肝煎)という重要な役職にあって、旗本とは言え大名の浅野長矩よりも高い官位・格式を有した訳なのですが、そうした職責を十分に全うした有能な人物だった、という評価もある訳なんですね。 |
真実は分かりません。しかし、どの様な人格や能力を持った人だったのかは兎も角も、事実として吉良義央は赤穂の四十七士に仇討ちをされてしまいます。そして、討ち取ったその首を邸内の井戸水で洗って、主君の墓に手向けるべく、赤穂の浪士たちは高輪の泉岳寺へと向かったのでした。この公園の一角には、その時のみしるし洗いの井戸が残されています。
実は同じ謂れの井戸が、首を持ち帰ったとされる先の、高輪泉岳寺にも在るんですが、二つ存在するって事はどういう事なんだろう。仇の首を討ち取った後に先ずはその場できれいに洗い、泉岳寺に着いた際に改めて清めたという事なんでしょうか。どっちが本物? という事も無いのですが、何れにせよどちらの井戸にも、歴史の重みがあるのは間違いありません。
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吉良邸をあとにしてこれから向かうのは高輪泉岳寺・・・ じゃーありません。今日は両国の界隈を散歩するのであります。
と、いう事で、本所松坂町公園を出たら左手へ。来た道をそのまま50mほど進み、その先の突き当りを左折。 |
間もなく、国道14号線の京葉道路に交わります。これを右折して、再び国道沿いを進みましょう。 |
250mほど先に、大きな緑一丁目交差点が見えて来ました。ここは左折して、都道463号線の清澄通りへと入ります。 |
JR総武線のガードを抜け、その先にある都営地下鉄両国駅の出入口を左手に置いて、更に都道沿いを直進。地下鉄出入口の左隣に見えているのは、令和4年からおよそ4年を掛けて大規模改装中の、東京都江戸東京博物館のユニークな建物です。 |
緑一丁目交差点からおよそ450m。都立横網町公園の南門前に到着です。かつてこの場所には、旧日本陸軍の施設で、被服本廠(ひふくほんしょう)と呼ばれた軍服などを作る工場が在りました。そして大正11年、当時の東京市は、3年前に移転となっていた被服廠のこの跡地を、公園用地として買い上げたのでした。
因みにこの公園がある、東京都墨田区横網という場所、同じ町内に両国国技館があるために、勘違いから横綱 / よこづな と誤記・誤読されがちなんですが、正解は横網 / よこあみ なんですね。だから公園名も、「よこあみちょうこうえん」。 |
公園造成中だった大正12年9月1日、犠牲者が10万人を超えると言われる未曽有の大災害、マグニチュード7.9の関東大震災が発生。直後に多くの被災者の人々は、この地を恰好の避難場所として、家財道具を担いで続々と避難して来るのですが、この時に第二の悲劇が起こってしまいます。 |
同日、能登半島付近にあった台風の影響で、東京地方には強い風が吹いていたのですが、地震発生時刻がお昼時だった事もあり、火を使う家庭も多く、この事で瞬く間に火災が広がり、風に乗って舞った火の粉が、この場所に居た避難者たちの家財道具などにも燃え移り、辺りは火の海となってしまったのでした。 |
更には、炎が竜巻の様に舞い上がる「火災旋風」という現象も発生し、都立横網町公園・東京都慰霊協会発信の資料によると、この場所での死者だけで、38,000人を超える大惨事となってしまったのでした。この数は、死者行方不明者105,000人という、震災の犠牲者の総数から見ても、この場所での惨事が如何に深刻だったかという事を示しています。 |
そしてその後の、大都市東京の復興を経て、この震災の犠牲者を慰霊し、更に後に起こった太平洋戦争における、東京大空襲の犠牲者も追加で慰霊された、無宗教の東京都慰霊堂(昭和5年竣工)や、記念品展示施設としての東京都復興記念館(昭和6年竣工)が、この公園内に置かれる事になります。そんな訳でここ横網町公園は、震災・戦災の記念公園としての役割を、現在も担い続けているんですね。尚、東京都慰霊堂では毎年、関東大震災が起こった9月1日と、東京大空襲のあった3月10日に、慰霊大法要が行われます。 |
この建物が、昭和6年に開設された東京都復興記念館。館内には震災や戦災の状況を伝える数々の写真や絵画、資料、そして遺品や被災物などが展示されています。入館は無料。
さっそく中へ入ってみましょう。 |
震災の8年後に開館したこの記念館は、「関東大震災の惨禍を永く後世に伝え、官民協力による東京の復興事業を記念する事」を目的に設立されました。展示場は、建物内1階と2階の2フロアに設けられていて、その展示内容は、関東大震災および災害復興に関するものと、戦時中の東京大空襲および戦災復興に関するものの、概ね二つに分かれています。そして更に屋外にも、場外ギャラリーが設けられているんです。 |
こちらは数多く展示された、震災の生々しい被災物のうちの二つ。左側のものは、火災の猛烈な炎によって真っ黒に焦げた、お菓子のクッキー。そして右側は、当時の東京市を走っていた路面電車(市電)の車内時計で、その針は地震発生時刻の11時58分で止まっています。多くの人達の人生や夢が、その日のその瞬間に途切れた事を、この時計が訴えている様です。 |
この展示室では、震災直後の東京の街の目を覆うような惨状や、官民力を合わせた被災者への救護・救援の様子がリアルに描かれた、大型絵画が数多く掲げられています。
この他にも、たくさんの貴重で希少な展示品や資料を見る事が出来るこの記念館は、東京の災害と復興の歴史を物語る貴重な場所として、過去の教訓を現代・未来へとつなぐ役割を担っているんですね。 |
展示館の建物脇に設けられた、屋外ギャラリーに出て来ました。ここでは主に、大地震によって発生した火災の、想像を絶する火力の強さと怖さを目の当たりにする事になります。 |
展示スペースには、太い鉄柱が猛火でグニャリと溶けて曲がったものや、倉庫に保管されていた大量の釘が溶けて大きな鉄の塊になったものなど、猛火によって無残に溶けた、たくさんの鉄製の被災品が整然と並べられていました。画像は、シャシー(自動車の骨組み)以外が全て焼けて無くなってしまった、自動車の残骸。 |
そしてこちらは、激しい火力と熱風で溶けてしまった、ビルディングの鉄柱。コンクリート造りの建物でさえこんな状況なので、木造家屋の密集していた当時の東京は、猛火に焼き尽くされて、瞬く間に焦土と化してしまったのでした。 |
震災・戦災のメモリアルパーク、都立横網町公園をほぼ一回りして、公園の六つある出入口の内の一番西側の出入口、西門の前まで歩いて来ました。この西門を抜けて、小さな交差点を隔てた先に見えているのは、墨田区立旧安田庭園です。 |
この旧安田庭園のルーツは、江戸時代の元禄年間(1688-1703)。先ずはこの地が、常陸笠間藩の江戸藩邸となり、庭園が造成されたと言われています。そして、その後の明治時代に入り、旧備前岡山藩主の所有する、華族の邸宅となった時期を経て、明治24年に、当時の四大財閥の一つ、安田財閥の設立者である安田善次郎(1838-1921)が、この場所を購入するところとなったのでした。だから旧安田庭園なんですね。
安田善次郎没後の大正11年には、その家屋や庭園は当時の東京市へ寄付されたのですが、翌年に発災した関東大震災によって、この場所もまた大きな被害を受けてしまいます。その後庭園が復元され、一般に公開されるようになるのは昭和2年からで、昭和42年にはその管理が東京都から墨田区へと移り、大がかりな改修工事の後の昭和46年、現在のような形でリニューアル開園されました。 |
庭園内に設けられたこの心字池は、かつては「潮入」と言われる、海の満潮・干潮を利用して池の水位を変化させる技法が採られ、その為に、庭園のすぐ傍を流れる隅田川から水を引き入れていました。しかし現在では、川の水質悪化などの理由で、「潮入」の技法は採られておらず、ポンプを利用して人工的に水位を変化させているんですね。因みにその「潮入」が今でもまだ現役なのは、東京都中央区にある浜離宮恩賜庭園のみになっています。 |
この和風の部屋は心字亭。無料の休憩室になっていて、静かで快適な環境の中で、庭園や心字池をゆっくりと眺める事が出来ます。 |
一回りしても歩行距離およそ400m程の、それ程大きくはない旧安田庭園内を、東門から入りゆっくり巡って、西門までやって来ました。この西門を抜けると目の前の道は、国技館通り。今日の散歩のいちばん初めに歩いた、両国駅前を走る通りです。これを直進して両国駅方向へ。 |
国技館通りと言うからには、当然この通り沿いに両国国技館がある訳でして、旧安田庭園から目と鼻の先、50mほどでその建物は見えて来ました。
この両国国技館(正式名称は国技館)は、公益財団法人日本相撲協会が所有し管理運営する、最大1万人を超える人数を収容する事が出来る施設で、本場所相撲興行の他にも、様々なイベントが開催されます。 |
大相撲ファンのこの私も、国技館開催の本場所入場チケットの抽選申し込みにチャレンジした事はあるのですが、大相撲が大人気の昨今では特に、チケットの入手もそれほど容易ではなくなっているようであります。そんな訳で、それなりの会費を支払っておられる、大相撲ファンクラブ会員の方々であれば兎も角も、そうでないワタクシ如きには残念ながら、大相撲の土俵間近での迫力あるナマ観戦は、未だ少しばかりハードルが高そうであります。
まぁ、もっとも、一昔前と比べてテレビの画面も格段に大きくなった事だし、家でビールでも一杯やりながら4K放送で観戦した方が、結構臨場感もあって宜しいかと自分に言い聞かせ、しぶしぶ諦めているんですが・・・ |
そんな国技館内には、誰でも入れる入館無料の相撲博物館があるので、折角だからちょっと覗いて行こうと思います。
今は6月なので本場所相撲興行は無く、今日は特に他のイベントもない様なので、国技館の施設内は比較的静かであります。 |
相撲博物館のスペース自体は1ルームのみで、それ程大きな施設と言う訳ではないんですが、それでも館内には、相撲に関する多くの資料や写真、貴重なコレクションなどが展示されている他、様々なイベントや企画展もイレギュラーで開催されるので、中身の濃い内容になっていて、特に相撲ファンという事ではなくても、充分に楽しめます。 |
館内に展示されたこの化粧廻しは、今年1月に明治神宮で行われた、第74代横綱豊昇龍の横綱授与式の時に、奉納土俵入りで締めていたもので、土俵入りの所作を指導した、同じ出羽海一門の武蔵川親方(元横綱武蔵丸)から借用したと言われる化粧廻しです。何を隠そう豊昇龍関は、新入幕の時から応援しているワタクシ一推しの、ストイックで技巧派、運動神経抜群の関取なので、この展示物には興味津々でありました。 |
両国国技館のすぐ隣にある、両国駅西口のロータリーまで戻って来ました。だけどこのまま電車に乗って帰る訳ではありません。これから、ちょっと寄って行こうと思っている所があるんです。
因みに、前方に見える両国駅の旧駅舎は、昭和4年に建造されたもので、今でもまだ現役で活躍中。三つ並んだアーチ型の窓が印象的です。 |
今日最後に寄って行こうと思っているのがここ、複合飲食施設の -両国- 江戸NOREN。両国駅の旧駅舎を改装して平成28年にオープンした、駅舎内で営業する「ミニミニ駅ビル」です。ここでは、吹抜けの2フロアを利用して、メインの飲食関連店舗の他、催事場や両国観光案内所、伝統工芸品のショップなども営業しています。 |
何故、今日ここに寄って行こうかと思ったかというと、これを見たかったから。催事場のスペースに設けられた、日本相撲協会監修の、およそ45平米になる原寸大の土俵。
・・・って事で、リアルな土俵を眺めていたら、その周囲に並んだ飲食店舗に目が移りました。そう言えば、今日はまだランチをしてなかったっけ。お腹もグーグーと唸りだしたので、ここで食欲を満たしてから帰ろうと思います。 |
★交通
JR中央・総武線または
都営地下鉄大江戸線
両国駅下車 |
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