皇居東御苑で江戸城巡り

2025年5月





 
大手町駅出入口
大手町駅C13a出入口

 少し前に、皇居の周囲をぐるっとひと回り散歩するというのを、このサイトの記事にしたんですが、今日はその皇居の周囲ではなくて、敷地の中の方を歩いてみようと思うんです。天皇皇后両陛下と、敬宮殿下の御所、そして宮殿や宮内庁庁舎なども在る皇居は、その意味では超が付くほど警備は厳重な筈なので、何時でも何処にでも自由に入って行けると言う訳では当然ありませんが、しかしながらその皇居内で、庭園として一般に公開されていて、自由にあちこち歩き回れるというスペースがあるんです。

 と、いう事で今日は、皇居の大手門に近い、地下鉄の大手町駅C13a出入り口前からスタート。目の前を走る大通りの、都道永代通りを左方向へ進みます。





内堀通りを越える
内堀通りを越える

 間もなく、同じ都道の内堀通りと交わるので、横断歩道でこの大きな交差点を越えましょう。正面にはもう既に、皇居とその大手門が待ち構えています。

 ところでこの皇居は、ご存知の様に元々は徳川幕府の江戸城が在った場所。しかしそれ以前の12・3世紀頃には、諸説あるようではありますが、鎌倉幕府の有力な御家人(鎌倉殿の家臣)となる、武蔵江戸氏の館が在ったと言われています。そしてその後の15世紀になって、室町時代に活躍した有力な武将太田道灌が、この地に初めて江戸城の前身となる城を築き、更に16世紀の末に、江戸幕府を開いた徳川家康の居城となったと言う訳です。





皇居東御苑へ
皇居東御苑へ

 今日あちこちと歩き回ろうと思っているのは、皇居東御苑。昭和36年から整備を始め、昭和43年に開園した、面積およそ21万平米、東京ドーム4.5個分の広さがある、入園無料の皇居附属庭園です。そしてここには、徳川幕府時代の貴重で価値ある文化財も、数多く残されているんです。

 出入門はこの大手門の他、平川門北桔橋門の3カ所ですが、今日は大手門から入って行こうと思います。だけどその前にここ皇居と、旧江戸城の位置関係をちょっと確かめてみましょう。





皇居と江戸城

 先ず、現在東御苑となっているエリアは、その当時には、将軍の居住空間や大奥などが置かれた城の中心本丸と、そして二ノ丸三ノ丸などが在りました。また、マップ上の坂下門や二重橋が記された辺りのエリアには西ノ丸が、東御苑から濠を越えた西側一帯には吹上が、更に北側の科学技術館や、日本武道館がある辺りには北ノ丸が在って、その時代その時代で、其々重要な役割を担っていました。加えて、現在の皇居外苑の辺りは西ノ丸下と呼ばれ、ここには有力な譜代大名の屋敷が集まっていたのでした。

 こんな風に、これら曲輪又は廓(くるわ)と呼ばれる区画で、江戸城は構成されていたんですね。





大手門
大手門

 大手門は、お城の正門にあたる重要な城門。この江戸城の大手門は二重に造られていて、手前の門(画像左側)高麗門、奥の門(画像右側)渡櫓門です。そしてこの城門を上から眺めると、四方が囲まれた、まるで枡の様な形をしているので、枡形門・枡形虎口と呼ばれているんです。

 ・・・と、いうところで、さっそく東御苑の中へと入って行きましょう。嬉しい事に入園料は無料なんですが、流石に皇居だけあって、大手門前の受付では、警察官による手荷物チェックが行われます。それにしても今日は(・・・それともいつもなのか)、現代の黒船に乗ってやって来た異人さん達がやたらに多くて、入園者の八割方がインバウンド客。まるで自分の方が海外へ観光旅行に来てるみたいです。しかし、日本の歴史や伝統に興味を持って、沢山の旅行者がこうして我が国を訪れてくれる事は、それはとても喜ばしい事であります。





高麗門
高麗門

 先ずは表側の高麗門を抜けて、枡形虎口の中へ。最初1606年に建設されたこの高麗門は、その後明暦の大火で焼失した後、1659年に再建されたものです。門のデザインは、大きな屋根の下に、小さな二つの切妻屋根が、内側に向けて並行に配置されたスタイルで、上から眺めるとコの字に見えるのが特徴。





渡櫓門
渡櫓門

 そして、内側に配置された大きなこの渡櫓門。こちらは太平洋戦争時の空襲で、前のものが焼失してしまった為、現在の門は昭和42年に復元されたものです。

 この門の特徴は、見張りや警護のための部屋(櫓・やぐら)が、門の上に設けられている事。例えば敵方が城へ攻めて来た時には、この櫓の中から、弓や鉄砲で迎撃して、城内への侵入を防ぐ訳です。加えてこの渡櫓門と高麗門は直角に配置されているので、外側の高麗門から侵入して来た敵の連中は、虎口内を直角に曲がらなければならないので、勢いを失くしたところで攻撃を受けて、一網打尽になると言う訳なんですね。尤も、天下泰平の江戸時代、徳川家に反旗を翻す者はいなかったし、幕末の戦乱に於いても、江戸城は無血開城となったので、残念ながら・・・ いやいや幸いにも、この枡形門が機能を発揮する事は無かったのでした。





渡櫓門の鯱
渡櫓門の鯱

 空襲で焼失した渡櫓門の屋根には、1657年の造立になる一対の鯱(しゃち)が飾られていたのですが、戦災を免れたその内のひとつが、虎口内に保存・展示されていました。





三の丸尚蔵館
三の丸尚蔵館

 大手門を抜けると、そこは三ノ丸があった区域。そしてこの建物は、江戸城関連の施設ではありませんが、皇室に代々伝わってきた貴重な品々や美術品などが収蔵されている、三の丸尚蔵館。展示室や展覧会は入場無料で公開されるのですが、残念ながら現在は建物の大規模な改装中で、長期休館中でありました。





同心番所
同心番所

 この同心番所は、城の中心部である本丸への、言わば入口にあたる、警戒が厳重な場所に位置している警備詰め所です。ここでは、同心と呼ばれる比較的下級の武士たちが詰めていて、登城者の監視の任務に当たっていました。





石垣が巨大です
石垣が巨大です

 同心番所の前を過ぎて、二ノ丸の区域に入るとすぐ、大きな石垣が現れました。3箇所に並んだ石垣の間には、2本の通路があって、画像奥の通路は旧本丸御殿跡へ、画像手前の通路は旧二ノ丸御殿跡へと至ります。江戸時代には、奥側の通路に中之門があって、直接本丸へと続く通路の最初の門として、厳重に警戒されていたのでした。

 ・・・それにつけてもこの石垣、ホントに巨大です。





展示石(伊豆半島産安山岩)
展示石 (伊豆半島産安山岩)

 そうなんです。この辺りの石垣は、江戸城内でも特に巨大な石を使用して積み上げられていて、徳川将軍の威厳や力を見せつける効果を狙っていたらしい。画像の石は、実際に石垣を築くために用いられていた築石。平成17年から1年半を掛けて、この辺りの石垣の修復工事が行われたのですが、その時損傷が認められたために交換された築石が、この様に展示されていました。





百人番所
百人番所

 本丸へと続く中之門と向き合う場所に設けられていたのは、百人番所。ここで警備に当たっていたのは、100人の同心と、その上司である20人の与力が一組となって編成された、精鋭の鉄砲隊で、それぞれ四組が交代でオールナイト勤務していたんです。





百人番所の植え込み
百人番所の植え込み

 長さ45mにもなるこの警備詰め所。端から端まで眺めながら歩いていたら、建物と同じに剪定されたこんな植え込みが。なかなか絵になるので、ちょっと撮影です。





大番所
大番所

 中之門跡を過ぎて、本丸方向へ進むとすぐに、今度はこの大番所があります。ここは、本丸へと向かう登城者の最終監視所なので、先の同心番所や百人番所と比べると、最も位の高い武士が詰めていたんです。明治時代に入って、江戸城が皇居となった時には、改築されて、作業所として使用されていましたが、昭和43年の東御苑開園時に、元の姿へと復元されました。





二の丸雑木林
二の丸雑木林

 旧二ノ丸御殿が在った辺りには、現在雑木林が広がっています。この雑木林は、武蔵野の面影を復元するために、昭和58年から3年をかけて造成されて、且つ平成14年、更に拡張されたものです。





皇居正門石橋飾電灯
皇居正門石橋飾電灯

 雑木林の付近には、こんな古めかしい電灯が置かれていました。これは明治20年代に作られた、青銅製の飾電灯で、皇居正門石橋(眼鏡橋)の柱に嘗て設置されていた、6基の飾電灯のうちの一つです。





二の丸庭園
二の丸庭園

 雑木林を抜けると、日本庭園がありました。18世紀中頃の、九代将軍徳川家重の時代に、二ノ丸御殿に設けられていた日本庭園がここに再現されていて、昭和43年の東御苑開園にあたり公開されたものです。





菖蒲田
菖蒲田はまだシーズン前

 二の丸庭園には、菖蒲田があります。ここでは、東御苑造成中の昭和41年に、明治神宮の菖蒲田から株を譲り受けた、80品種を超えるハナショウブが育てられているのですが、如何せん今はハナショウブの開花シーズン前。初夏の開花時期を直前に控えて、造園業者のスタッフがせっせと作業をしているのを、じっと眺めるしかありません。





諏訪の茶屋
諏訪の茶屋

 同じく、二の丸庭園内にあるこの建物は、諏訪の茶屋。明治天皇の時代の明治45年に建築されたもので、元は皇居内の西側に位置する吹上御所付近に、御休所として建てられていたものが、この場所へと移築されました。





都道府県の木
都道府県の木

 この木は左側がフェニックスで、右側がオリーブ。其々宮崎県と香川県の、「県の木」なんですが、このスペースでは、東御苑の開園に際して各都道府県から寄贈された都道府県の木が、こうして植樹されていて、来園者の目を楽しませてくれます。





汐見坂
汐見坂

 江戸時代初頭の築城の頃には、城の間近まで日比谷の入り江が迫っていて、この坂の途中から江戸湾の海辺を眺める事が出来たらしい。だから坂の名前は汐見坂。坂下が二ノ丸で、坂上は本丸です。





白鳥濠
白鳥濠

 汐見坂の左手に見える濠は白鳥濠。汐見坂が二ノ丸と本丸を繋ぐ坂なら、白鳥濠は其々を分ける濠。当初はこの様に二ノ丸と、城の中心本丸を隔てて守る濠が複数あったらしいのですが、今ではこの白鳥濠だけが残っています。





汐見坂脇の石垣
汐見坂脇の石垣

 この辺りの石垣は、平成14年から2年半余りを費やして、修復工事が行われているのですが、汐見坂のすぐ脇に築かれている石垣の色が、この様に均一でないのは、古い石材と、補修工事時に交換した新しい石材が混在している為なんです。どうも、江戸城だった当時の火災で、特にこの辺りの石垣が損傷したためらしい。





梅林坂
梅林坂

 この梅林坂も汐見坂同様、二ノ丸と本丸を繋ぐ坂。その名の通りに、坂にはおよそ70本の梅が植えられていて、開花シーズンには坂が紅白・薄紅に染まって、とても綺麗なんですが、今はシーズンをとっくに過ぎているので、それを楽しむ事が出来ません。さっきの菖蒲田の時もそうだけど、腹立たしいくらいの、なんと言う間の悪さ。





平成18年2月撮影
平成18年2月撮影

 ・・・ってワケで、随分以前にこの場所へ来た時撮影した、梅の花の画像を載せて、お茶を濁しておく事にします。因みにこの梅林坂の始りは、徳川家の時代よりも古い、太田道灌の時代らしく、その時分には今より遥かに多い、数百株もの梅の木が植えられていたそうです。





書陵部
宮内庁書陵部

 梅林坂を上り切った辺りには、宮内庁の組織の庁舎である書陵部の建物があります。ここでは、皇室に伝えられてきた歴史的な資料の保存や整理・公開、皇室の歴史の編纂、そして歴代天皇や皇族の墓所の管理と調査などが行われています。建物の両脇に設けられているのは書庫で、68万点余りの歴史的資料が所蔵されているんです。





天守台
天守台

 梅林坂を上って本丸の区域に入って来ると、いよいよ江戸城のシンボル、天守(天守閣)が現れました!!

 いやいや、そうじゃぁなくって、これは天守台。天守の基礎となる、高さ約10mの石垣なのであります。じゃぁ、その上のメインの建物は何処へ行っちゃったの?
 ・・・それ、実は無いんですね。





徳川家光時代の天守模型
徳川家光時代の天守模型

 江戸城の天守は三度建てられていて、特に三代将軍徳川家光の時代には、最も規模の大きな、高さ58mの天守が建造されました。しかし完成後僅か19年で、1657年発生の明暦の大火(振袖火事)によって、この天守は焼失してしまいます。そしてその後の、四代将軍徳川家綱の時代に幕府内で、「天下泰平の世の中で軍事上無意味な天守は不要。それよりも町の復興を優先すべき。」という事になり、天守は築かれないままに、江戸時代は終わるのであります。因みにこの画像は、ここ東御苑内に設けられた展示室で観る事が出来る、江戸城天守の模型で、1638年の竣工になる、上述の最大規模の天守がモデルになっています。





天守台は展望台になっています
天守台は展望台

 現存するこの天守台は、明暦の大火で天守焼失後の翌々年、1659年に一旦築かれ掛けた天守の基礎部分で、前述の様に天守の建築が中止となったために、途中まで築かれたこの天守台だけが残ったと言う訳なんです。そして今ではこの天守台、展望台になっていて、頂上まで上る事が出来るんですね。

 こりゃぁ上るしかない。





天守台からの眺め
天守台からの眺め

 天守台からは、大きな芝生広場が望めるんですが、何を隠そうこの広場こそが、旧本丸御殿のあった場所なんです。広場の手前から、将軍の正室・側室や奥女中などが暮らす女性専用スペースの大奥(おおおく)、次に将軍の執務室やプライベートな居住空間のある中奥(なかおく)、そして、広間や大広間などの、儀式や政務が行われる公的なスペースの表向(おもてむき)、といった具合に並んでいたようです。





桃華楽堂
桃華楽堂

 天守台と向かい合う様に建っているこの建物は、皇室の施設の桃華楽堂。昭和天皇の皇后、香淳皇后の還暦を祝して、昭和41年に建てられた皇室の音楽堂で、一般の入場は出来ません。この建物の八面体の上部壁面は、有田焼や信楽焼などの陶片とタイルで飾られ、翼を広げて羽ばたく鳥が、それぞれの面に描かれています。





宮内庁楽部庁舎
宮内庁楽部庁舎

 桃華楽堂の裏手にあるのは、宮内庁楽部庁舎。宮内庁の式部職である楽部の職員は、雅楽の楽師として、宮中の儀式や饗宴、春秋の園遊会などで雅楽を演奏する他、洋楽も習得していて、皇室の行事などで、洋楽の演奏も行っています。





竹林
竹林

 竹林がありました。これは御所のある吹上御苑で育った株を分けて、平成8年に整備されたもので、日本や中国の竹や笹が13種類植えられています。





石室
石室

 これは石室。内部のスペースは、和室で例えるところの12畳ほど。当時いったいどの様に使われていたのかは良く分かっていないのですが、この場所が大奥の近くであることから、火事などの非常時に、大奥用の大事なものを避難させる場所だったというのが、有力な説らしい。





富士見多門
富士見多門

 石室のすぐ先には、富士見多門があります。多門とは城郭を守る、平屋で細長い櫓の事。塀よりも強固な防御施設で、濠や石垣を越えて攻め入って来ようとする敵方に対して、細長い窓から鉄砲や弓で攻撃するための拠点でした。





多門の内部を見る事も出来ます
内部を見学出来ます

 当時は江戸城の随所に、こうした多門が設けられていたのですが、現存するのはこの冨士見多門と、伏見櫓に設けられた多門のみ。富士見という名が付いているのは、この窓から富士山を眺める事が出来たからなんでしょうが、今は見る事が出来ません。





倉庫として利用されていました
倉庫として利用されていました

 多門は強固な防御施設ではあるのですが、江戸時代に於いてこの江戸城が、敵の攻撃に晒される危険性は低かったので、主に武器や色々な道具などを収蔵しておく、倉庫としての役割の方が強かったようです。





松の大廊下跡
松の大廊下跡

 何やら、インバウンドのお客さん達が集まって、興味津々で覗き込んでいる場所があります。一体なんだろうと、傍に掲げられた案内板を見てみたら、あの浅野長矩が吉良義央を斬りつけた、ご存知松の大廊下跡でした。

 しかしですよ、青い目をした異人さんたちが、元禄時代のあの殿中刃傷事件について、興味を持ち理解しているという事にビックリでありますし、殆ど時代劇ドラマからの知識が中心の自分から見ると、事前にしっかり知識を蓄えて日本へやって来る、外国人観光客のこの人達の事を、思わずリスペクトしてしまう訳であります。ところでこの松の大廊下跡、今では植え込みがあるだけで、当時の様な松が描かれた障壁画は愚か、何の跡形もありゃぁしないんですが、自分も含めて何故か皆立ち止まって、辺りを見入ってしまうというのが不思議でなりません。





富士見櫓
富士見櫓

 ここは本丸の区域の南の端。そしてここにも、インバウンドの皆さんが集まっています。そんな中の一人がスマホで自撮りしている、その背景にある建物は、高さ16mの富士見櫓で、画像では分かりませんが、高さ15mの石垣の上に建てられているんです。既述のように江戸城の天守は、明暦の大火で焼失した後、再建される事は無かった訳ですが、同時に焼失したこちらの富士見櫓は、大火の2年後になる1659年に再建されて、以降はこちらが、天守の代役を担う事になるのでした。

 因みに江戸時代の当時、江戸城内には数多くの櫓が建てられていたのですが、今現在、渡櫓門に設けられた櫓以外で現存する櫓(隅櫓・すみやぐら)は、この冨士見櫓と伏見櫓巽櫓の三つだけとなっています。





展望台
展望台

 さてさて、江戸城巡りもいよいよ大詰めって訳で、最後に東御苑の展望台へと上って来ました。実は嘗てこの場所にも、台所前三重櫓という名の櫓が建っていたんです。櫓はその役割上、見晴らしの良い場所に置かれる訳なので、その石垣の上の跡地が、こんな風に展望台になるっていうのは納得です。





眼下には白鳥濠が
眼下には白鳥濠が

 この展望台からは大手町のオフィスビル群や、二ノ丸の一帯を見渡す事が出来ます。そして眼下には、さっき見て来た白鳥濠が。今日は、皇居内の一部スペースに造られた庭園の散歩とは言え、歩行距離4km程の、ちょっとした良い運動にもなったし、何より、貴重な文化財を眺めながら楽しく歩いたので、あっと言う間の江戸城巡りでありました。









★交通 東京メトロ・都営地下鉄 大手町駅下車
★歩行距離 約 3.5~4.0 km



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